波宇也(ハウヤ)踊り

波宇也(ハウヤ)踊り

毎年秋祭りの夜七時三十分から、神社拝殿で「波宇也(ハウヤ)踊り」が奉納されます。この波宇也踊りは、田楽衆が鼓と古楽器を持って約二十分間、上下、左右、前後に飛び舞い、「ほ-ほ-」とかけ声をかけるなど、古典的な素朴な踊りです。

地元に伝わる一説に、その昔、徒党を組んだ賊徒が、この地方の神社や寺院などを荒らし回って、地元の人たちから恐れられていました。あるときその賊徒が三輪神社の宝物を盗もうとして神殿の扉を開けたところ、大きな白い蛇が口をあけて飛びかかろうとしました。驚いた賊徒はほうほうの態で逃げ去り、その後、出没しなくなりました。村人が賊徒の退散を歓迎し、その喜びを踊りで表現して踊ったのが、この踊りの初めであるとされています。

ハウヤ踊りの由来などを書いた資料は残っていませんが、踊りの仕方については代々口承で伝わっています。記録としては、踊りのときに使われる締太鼓、ビンササラなどを納めた道具箱の裏蓋に「文政八年(一八二五)に波字也党で箱を作り替えた」と墨書したものが残っています。

奉納する当日、田楽衆(波宇也党)の六人は、社務所で紋付き、熟折れ駄陣中に装束を整えます。奉納のときに使う締太鼓二つとビンササラ四つと白扇一本を持ち、神官とともに、石段を登り、拝殿に進みます。神前へのお供えは、赤ズイキイモ(小芋)の根の部分に生栗を桟枝で指した「高盛お供え」と、餅、昆布、初穂、白蒸のほかマツタケや鯛などです。

拝殿では締太鼓の二人が本殿に向かって左右に分かれ、ビンササラ役の四人も両側に分かれて座ります。午後七時三十分から神官の似嘩祝詞奏上など神事が行われ、それが終わると、田楽衆は向かい合うように座り直し、田楽を奉納します。

まず、本殿に向かって左の締太鼓役(最年長)が左手に太鼓の紐を持ち、右手にバチを持って、トントンと単調なリズムで太鼓を叩きながら立ちます。太鼓に合わせて右足から三歩、四歩目は身体を本殿正面に向け両足を揃えて右に横跳びをします。

次にそのまま正面を向いて左に横跳びを三回し、元の位置に戻ります。これを三回繰り返します。三回目に元に戻ったところで同じ列のビンササラ役が両手でもって鳴らしながら立ち、同じ動作を三人で三回繰り返し着席します。

それが終わると、右列の締太鼓が前へ進み、先ほどと同じ動作を行い、ビンササラ役も同様に従います。両側の奉納が終わると、全員が太鼓、ササラを鳴らしながら右回りに輪になって回り始めます。左列の締太鼓から「ホーイ、ホーイ」と声をかけ、順次同様に声をかけます。三周したところで元の自分の席に戻ります。今度は右列の締太鼓から全員で三周するまで同じ所作を繰り返します。さらにもう一度左列の締太鼓から同様に繰り返します。

次に「蛙飛び」となります。まず、左列の締太鼓が中央下座に移動し、一礼の後、白扇を広げて右手に持って立ち、両手を胸の高さで合わせます。そのままの高さで左壱に三匝広け、易僻の正面に戻すと両足を揃えたまま左前方に一歩、右に一歩、左後方に一歩飛んで、元に戻ります。これを三回繰り返すと左手を下ろし、右手を頭上に真っすぐ上げ、扇を伏せるようにして下ろしながら、「ホーイ」と三回かけます。そして扇を納めて一礼し元に戻ります。これを右列締太鼓、そして左右のビンササラ役が交互に六人全員で行います。

昔はもっと長かったようですが、近年は略式になつたといわれます。
踊りが終了すると、拝殿左横にある境内末社天満社前に並び、太鼓、ササラを短く打ち鳴らし一礼して終わります。この舞が終わらないと秋祭りを締めくくる神楽は舞わないしきたりになっています。

踊り手はハウヤ党の六人衆によって代々勤めてきました。これらの人は三輪神社をとりまいた位置に住んでいます。この神事は、三輪村(地家)十七軒の農家のうち、六軒の世襲制で伝統行事が維持されており、大和国・大神神社から祭神が勧請されたときに、一緒に来た人々の子孫だと伝えられています。明治維新後、六軒のうち二軒が転出したため、入れ替わりがあり、うち一軒は区長がつとめるようになっています。この波宇也党の六人衆は、波字也踊りだけの役付けで、神社の運営に関わることはありません。

波字也踊りは平成九年九月に市指定重要文化財(無形民俗文化財) に指定されました。