三田青磁

三田青磁

江戸後期に三輪神社裏山・通称茶碗山の明神窯で、三田青磁を焼いていました。初期の窯は上野坂をのぼり詰めた天狗の鼻で丸窯を作り、試し焼きをしたのが始まりだとされています。

旧有馬郡寺村の庄屋日記に「寛政拾壱巳未(1799年)三輪村明神山浦二茶碗山ヲ始七月かまつさ、細工人太市郎貞次郎(後略)」とあるように、この年から焼さはじめたようです。そして文化・文政年間(1804年~30年) に最盛期を迎えました。

三田青磁は陶工・内田忠兵衛が三田・本町の豪商、神田惣兵衛に資金を要請、その熱意に応えて神田の支援がはじまりました。その後、京伏見の名工欽古堂亀祐を迎え、三輪の陶工・向井喜太夫、田中利右衛門、内田久吉、亀井吉之助、北出塔次郎などによって「三田焼さ」の名声が広まりました。

最盛期には四基の窯があり、三百合人の陶工が生産に従事したといわれます。製品の種類は香炉、茶器、花瓶、人物、置物、皿など多岐にわたっています。なかには中国青磁に劣らない名品もあり、生活用品だけでなく美術品としても珍重されました。窯場の近くに三輪神社の分身を祀り、朝夕製品についての祈願をしていました。

三輪会館に「大正初期の三田窯見取図」というパネルがあります。それによると、現在老人クラブがゲートボールをしている付近には乾燥窯、作業所、作業工場、用土置さ場、濾過場、管理人居宅等がありました。南西側には明神窯跡(新窯)があり、その奥には古窯跡と物原(不良品の捨て場)がありました。

芝虎山(虎夫)は大正4年に、大正天皇即位記念として「岩上 三霊亀」の置物を献上しています。この作品と同じ物が三田市長公室 に保管されています。このとき三輪村は芝に奉祝 の酒盃「鳳凰文松竹梅」の大中小 一組の制作を依頼し、村民に配布しました。芝はさらに昭和3年には 昭和天皇の即位御大典記念に酒壷を 焼いています。3年後に虎山が死亡し、有志によってなんとか寄合窯で青磁を焼いていましたが、技術面と資金面が続かず、昭和8年に窯の火はすべて消えて しまいました。

三田青磁の名品や青磁関係資料は、現在、三田市立図書館の特別展示室で公開
されています。これらの中には、三田出身で神戸で耳鼻科を営んでいた「細見英・三田青磁コレクション」や、山見理一旧蔵の「神田惣兵衛と内田忠兵衛会見図」などが収められています。現在遺構として残っているのは、県指定文化財の明神窯跡と、山側に古井戸がある程度です。

2003年11月に三輪明神窯史跡園として整備されました。