松山弾正と暴れ者甚五郎

松山弾正と暴れ者甚五郎

三輪の地のはじまりは、大和国(奈良)の桜井にある大神神社の分霊を三輪山(現三田市三輪)に祭り、そのふもとに住み神田を開いた人々が、門前町をなしたと言われている。

およそ六〇〇年前、大道甚五郎という土地の豪族が三輪山の後の大道ヶ原に住んでいた。甚五郎は三輪とその周辺の人々から暴れ者と恐れられていた。この頃の朝廷は、吉野の南朝と京都の北朝の二つに分かれ、政権争いをしていた。そして、各地の豪族もどちらかの朝廷について争っていた。甚五郎は報償金の多い方の朝廷に味方し戦っていたが、時には町へ下りて、家々からお金や食べ物を強奪していた。

ある年のこと、松山弾正という代官がやってきて川除に住んだ。そこで、村人たちはさっそく代官に甚五郎の悪事を訴えた。
「代官さま、また大道甚五郎が押込んできて、お代官さまへの年貢や、神さまのお供え物まで取っていきました。」
「それは困ったのう。わしはお前たちの年貢を都の殿さまへお届けせねばならんのに。」
「はい、よくわかっております。」
「となりの大原、向かいの貴志なんぞでは、そんな盗賊の話は聞かんがのう。」
「そのことでございますが、どちらの代官様も堅固なお城に住んでおられ、警備の家来を召抱えておられます。それに比べて、こちらの代官さまは何の備えもなさっておりませんので、屋敷住いの新米と足もとをみて、ばかにしているのではないかと思います。」

そこで弾正は村人たちの申し出でにしたがい、城をつくることになった。攻めるによし、守るによしというところを探した結果、三輪の茶臼山に決まった。ところが、困ったことに、そこにはこの山を御神体とする三輪神社があった。そこで信仰厚い村人たちが集まって相談した。
「われわれ三輪の神領に住む者を困らせる盗賊を退治するため、御神体には丸山へお移り願おう。止むを得ずお移り願うのやから、神さんはおいかりにならんやろう。」

やがて、茶臼山に新しい館が建ち、城ができ、家来もやとった。これをみていた甚五郎は、
「何のことあろう。一気に踏みつぶしてくれよう。」
と戦をしかけてきた。茶臼山に陣取る松山弾正は受けてたったが、争いは長期戦となった。

この頃の戦法は、「夜討ち焼き討ち」が当たり前で、刈り入れ前の稲までも火をつけてまわることがよくあった。弾正は、ひょっとすると甚五郎が早く決着をつけるために茶臼山に火をつけるかも知れないと思った。そこで先手を打ち、甚五郎が住む大道ヶ原(甚五郎山)のふもとに火をつけた。

天を焦がし赤々とえた炎は夜になっても燃えさかり三田盆地にも広がると、何と十七日間も燃え続けたという。山頂に城を構えていた甚五郎とその一味は、火勢に押されて逃げ場を失い、一人残らず焼け死んだそうだ。

代官松山弾正の軍勢は、
「エイ・エイ・オー。」
と勝ちどきを上げ、盛大な戦勝祝いをした。村人たちは、
「神さまへのお供え物まで奪い、御神領を荒した天罰や。」「そや、そや。これで安心して暮らせる。」
と喜んだそうだ。