
来迎寺の千手観音
来迎寺は国道一七六号線の三輪交差点から上野方面へ少し上った右手の高台にあります。来迎寺のご本尊は釈迦牟尼佛ですが、ご本尊と共に安置されている小さな厨子の中には一寸八分の千手観音が祀られています。この観音様には、「源平合戦」に敗れた平家一門に因む悲話が伝承されています。
平家は一ノ谷の戦いや屋島の合戦など、次々に敗れました。そして、壇ノ浦の戦いを最後に、平家一門は海の藻屑となり、滅亡しました。しかし、平家の武将悪七兵衛景清は不思議に命永らえ、日向の国に落ち延びました。この景清には、遠く鎌倉の地に娘が一人おり、名を「人丸姫」といいました。
人丸姫は景清が日向に隠れ住んでいることを知り、はるばる鎌倉から父を訪ねました。ところが景清はその身を恥じて、自分の娘と気づきながら、父親であることを明かそうとはしません。しかし、人丸姫の親探しを知った里人の計らいで、親子の対面をすることが叶いました。そして、心なごむ日々を送ることができました。
やがて、鎌倉に帰るという娘に、 景清は自分の守り本尊である一寸八分の千手観音を手渡し、一族の供養を託し たのです。人丸姫は、父景清の戦いの場を逆にたどりながら帰ることにしました。壇ノ浦から屋島を経て、須磨の浦あたりまで船に乗りました。その後、徒歩で陸路をたどり、鵯越から一ノ谷、そして六甲山脈を望むこの小さな山里につきました。
しかし、ここで病に倒れてしまいました。運よく山裾の一角に古びた寺があったので、そこに小さな庵を建てて療養することにしました。その寺が「来迎寺」でした。日向で父景清と別れる際に手渡された千手観音を寺に祀り、病の回復を祈るうちに病は快癒し、村の人々を喜ばせました。
人丸姫は、世話になった村の人々にも千手観音の功徳がもたらされるようにと観音様をこの寺に安置し、鎌倉へと旅立ちました。こうして人丸姫が残していった観音様を祀ったのが、この来迎寺の草創ともいわれています。以来、この千手観音は次第に信仰を集めるようになり、多くの人々に功徳を与えてきました。 この千手観音像は背部に矢尻で「景清」と彫られています。
もう一つ、 来迎寺に言い伝えがあります。境内に古い井戸があり、清水が湧きでていることから、丸山の「吉凶の池」とも水脈がつながっているともいわれています。また、この地が「摂津国有馬郡三輪字清水」と呼 ばれていました。このことから「吉凶の池」とのつながりが推察されます。
このような言い伝えは、往時の人 くらしや思いが伝承されてきた興味深い話です。

